牛窓(うしまど)地名の由来
牛窓には、いくつかの地名起源説があり、神功皇后にちなむ説話や、地形からきたものがあります。
★神功皇后・・・・ヤマトタケルの尊の第ニ子仲哀天皇の御后で第十五代応神天皇の母。
その壱 神功皇后の船団が牛窓の瀬戸を通過する際、その威光におされて
牛が転んだところから「牛転(まろ)ぶ」となり、それが転じて「牛窓」
になったと言われています。
その弐 神功皇后の船団が出兵に行く途中、牛窓の海上にさしかかった時
牛鬼が現れ船に襲いかかりました。皇后は牛鬼を弓で射落とすと
首と胴と尾に分かれ海に落ち、首が黄島、胴が前島、尾が青島に
なりました。皇后が出兵から帰る途中、牛鬼の霊魂が海中から現れ
ましたが、住吉明神が投げ倒したことから、この地を牛転(うしまろび)
と言い、なまって「牛窓」になったと言われています。
その参 唐琴の瀬戸は潮流が激しく、「潮(うしお)の間戸」と言われていました。
その言葉が変化して「牛窓」になりました。
牛窓を囲む五つの巨大古墳の謎
牛窓には、牛窓湾を取り囲むように五つの巨大な前方後古墳があります。
天神山・黒島・波歌山(墓山)・鹿歩山・ニ塚山のことで、いずれも4世紀後半~6世紀にかけてのもの。さらに黄島と黒島には、縄文時代早期の貝塚も残されています。このことから牛窓の地には早くより人々の生活が始まり5・6世紀には内海航海の拠点がここに有り、少なくとも5代の首長(大王)が存在したと言われています
朝鮮通信使と”だんじり"の海遊文化館
朝鮮通信使資料館
鎖国の江戸時代、日本と朝鮮の両国には誠信の交隣関係が築かれ、江戸幕府は前後12回にわたる朝鮮通信使の来日を大歓迎した。この資料館には、善隣友好の貴重な全国の資料が多数展示されている。またその船団は牛窓にも寄港し、当時の名残りや文化遺産は、今も当地に生き続けている。
詞、歌人を訪ねて ‐‐- 石碑巡り ‐‐‐‐
牛窓を訪れた詩人、歌人は数多く、風景を賞賛し古墳を懐古しこれらの詞あるいは歌が今なお多く伝えられています。あなたも、歌碑の前に立って旅先の詩人。歌人になってみませんか。いつもの自分と違って、新しい自分が発見出来るかもしれません
①牛窓神社前(柿本人麻呂)②天神社(菅原道真)③五香宮境内(飯尾宗砥)④大浦駐車場(源俊頼)⑤金毘羅宮(藤原定家)
東備の鎮守 ‐--- 牛窓神社 ---
牛窓海水浴場のすぐ北側の長い石段を登ると牛窓神社があります。
その歴史は古く、牛窓明神ーーー八幡宮ーーー牛窓村八幡宮、そして明治初年に牛窓神社となり、御祭神には、牛窓の地の神霊及び代々世々の祖先の神霊が祭られています。
牛窓地区はもとより東備地区の鎮守として現在も四季を通じて家内安全・開運厄祓い・交通安全等願う人々が数多く訪れています
■当館のご案内
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岡山県牛窓の郷土料理が楽しめる小さな旅館福岡屋旅館:
電話0869-34-2016